興津丸(おきつまる)として最後となる航海の出航命令が出たのは昭和19年1月22日。23日正午の出航との事であった。
私はコロッパス(石炭夫)の仕事で八時から12時のワッチ(当直)であった。
次の当直の火夫に「当直30分前」を知らせに歩いている時であった。
機関室のテレグラフはスタンバイ(出航用意)を知らせるベルの音を発していた。
そして、三等機関士油差の人が、いくつもの出航準備と変わりなく主機関のタービンの試運転を行なっていた。
ボイラーの給水ポンプ、ウエヤースポンプの動きも早くなってきた。
正午少し前、興津丸の錨が上げられ始めた。何となく、いつもより揚錨機の音が重々しく感じられたのは気のせいであったのだろうか。
トラック島の空は、ちぎれ雲が足早に過ぎていく。7、8メートル弱の風が吹いていただろう。南洋では風がある方だ。 港内に白波がたっていた。
出航して三時間ほど、どちらの方向に針路をとっているのか私には明確ではなかったが、デッキに出てみるとトラック島はもう小さくなっていた。
鉛色の雲が島から水平に深く垂れ下がっているのが見える。
海上は相変わらず風があるが不思議と船の揺れは少ない。
南方を航海する時に見るいつもの真っ青な海の色とは違い、今日のそれは一寸黒みがかった海の色であった。
船団で出航した興津丸と日産汽船の3000トンあまりの船、そして我々船団を護衛する新鋭駆逐艦涼風と駆潜挺の計四隻の船団で右、左のジグザグのコースを取りながらの航海であった。
当時の私は一番下の一船員であったため先輩達の会話を聞いて、だいたいの行き先を知るのがせいいっばいだった。
出航した夜から下っばの私にもいろいろな情報が入ってきた。
アメリカ軍の潜水艦が近くにいる、とか機動部隊が北上中だとか、偵察機が飛来するとか、これらの情報はデマではなくてすべて事実のようであった。
興津丸に乗船する海軍将兵は私達乗組員や設営隊二千五百人に対しても「本船は危険海域を航行中である。充分注意をするように。」と警告を伝達していた。
本船を護衛する駆逐艦涼風は、本船と同じ周期でジグザグに航行している。
私は少し変だなぁと思った。というのは今まで(数少ないが)護衝艦は輸送船を廻りながら護衛するのであるが、本船と同じ十ノットから十二ノットで右、左と同時にジグザグのコースを取っていた。
危険海域航行中であるので輪送船、軍艦ともすべて灯火管制がひかれ、灯りが外に漏れないように船のポールド(丸窓)は1枚の鉄板を当てて蝶ネジで締め付けている。出入口の通路は2枚も3枚も厚い布を下げ、出入りするときも灯りが外に漏れないよう気を配るよう命令されている。
ただでさえ暑い南方洋上である。あらゆる窓、入り口を閉ざされてしまえば、まさに蒸し風呂同然である。
現代のような冷房装置など全くない。日中ならボールドを開け、ベンチレーターを差し込んで外気を取り入れ、少しばかりの涼を取り入れることもできるが、夜間日没後はそうもいかない。
ただひとつ扇風機が頼みの綱である。が、その扇風機も大部屋(8人から10人)に2機あるのみ。それも会社に早く入った人の専用機になっていて首を振らせず、自分が寝るベットに向けて全速で回しているという有様で、私のような新米船員はムンムンする自分のペットで汗まみれになって眠る〜疲れているからすぐ眠れる〜か、たまにデッキに出て涼むしかできない。
トラック島を出航して2昼夜が過ぎた1月25日、海上の風はややおさまってきたようであった。この航海は乗組員全員になにか重苦しい雰囲気を感じさせていた。先輩達の張り切ったかけ声が聞かれない。
それもそのはず、みんな日本を9か月位帰っていない。皆祖国を想う気持ちは同じであろう。
興津丸船団は東の方角に針路をとっているようだ。25日も暮れ始め、私も当直に入る時刻になった。
相変わらず石炭夫の仕事。暑い。とにかく暑い。何が何でも暑い。
北海道は1年で一番寒い時期なのに、自分がこんなに暑い思いをしている事を父は知っているのだろうか?
こんな思いを巡らしながら、石炭を缶前に1時間炊く分くらい一輪車で石炭庫から運び出した。
そして夜食を料理するため風呂でほこりと汗を流して、麦の入った米をとぐ。小さなライスボイラーでそれを炊き、蒸気を入れて一休みをした。
私はこの頃まだタバコというものを知らなかったので、一休みとはいっても生温い水を一杯飲んで「やれやれ」といったところである
ちょうどその頃である。ドカンドカンと3、4回遠くの海上で爆発音が聞こえた。と同時にブリッジより機関室へ非常を知らせるテレグラフの乱打、そして乗員全員に知らせる汽笛が鳴る。
静寂で暑い夜の洋上が一瞬にして戦闘の場と化した。
私は取るものもとりあえず甲板に出た。
食堂の時計は夜中の11時10分を指している。
あの爆音は11時5分頃であっただろう。
右舷甲板に出た私は、闇夜の洋上に真っ赤に燃える護衛駆逐艦涼風を見た。
駆逐艦涼風は艦首を僅か海上に残し沈みかけている。
燃えているのは海上の油であろう。艦尾は海中に没している。
僅かに残っていた艦首もあっという間に海中に沈んでしまった。
アメリカ海軍潜水艦による魚雷攻撃で3、4発命中したのであろう。
本当にあっという間の轟沈であった。
ブリッヂで双眼鏡で見ていた見張員は駆逐艦涼風は沈没したと報告していたのが私の耳に今でも残っている。
沈没した海上でも少しの間、炎が上がっていた。
魚雷命中と同時に駆逐艦に積み込まれていた爆薬が爆発したのだろう。
護衛艦を失った興津丸の船団は、全速力で海上を右往左往するばかり。
本船もダブルワッチ(二重当直)が動員されボイラーの能力以上あげ、主機関のタービン、全ノズルを満開にして速力を上げて逃げ回った。
洋上は真暗闇である。と、その時突然前方に船影がこちらに向かって進んで来る。
ブリッヂでは船長が面舵、面舵と叫んでいる。
相手の船も全速力である。そのうちわずかの距離で擦れ違った。
近くなってよく見ると同じ船団の日産汽船の船だった。駆潜艦はどこにいったのか闇夜でとうとう見失ってしまった。
このダブルワッチで2時間位太平洋上を逃げ回った。
何処をどう逃げ回ったのか私にはわからない。
当時同じ興津丸乗組員で甲板部の人、あるいは航海士の方でも居られたらお会いして当時を語り合いたいものだ。
太平洋上を逃げ回って(当時逃げるという言葉は禁じられていた。)ダブルワッチが解除になったのは昭和19年1月26日午前2時頃であった。
私もそうであったが先輩諸氏もヤレヤレといったところであろう。
汗を海水で流して、少しの真水で洗い流して暑い暑いペットに入った。
あれだけ戦々況々としていた船内も静けさを取り戻した。というよりも恐怖で言葉もでないといった方が事実ではないだろうか。
ベットに入ったが眠れない。
恐ろしさと暑さ、そしていろいろな事が頭に浮かぶ。
乗組海軍兵が、ひとりひとりに危険海域航行中であるので「裸で寝ないように」とか「充分注意するように」などと伝令が行き交う中、私は疲れているせいか、翌朝ワッチがあると思いながらペットに入るとウトウトと眠りに入った。
どのくらい寝ていただろうか。ドーンという大きな音と同時に私はペットから飛ばされ、床上に叩き付けられたショックで目が覚めた。
船内の電灯が消え、火薬の燃える臭いがした。
興津丸は右舷に傾き始めた。
私は半袖、半ズボンで寝ていたのでそのまま真っ暗闇の中、救命用具を手探りで探し当て、甲板に向かうべく通路に出た。
機関室を上から見下ろすと、暗闇の中、非常灯が二つ三つ見える。
あのドカンという魚雷命中の前まで全速でうなりをあげていたタービンの音は今わずかにウンウンとかすかな音をあげているにすぎなかった。
汽缶を焚いていた火夫が2、3人非常階段から上がってくる音がコツコツと大きく聞こえる。
機関室の中は床上まで海水が入り、船が揺れるたびポチャポチャと波打っていた。
私は暗闇の中、わずかな時間の間にいろいろな場所を見て回り、居住区を出て4番ハッチのある甲板にたどりついた。
外は闇夜、ひやりとする潮風を感じた。
船は大きく右舷に傾いており、とても立って歩いていける状態ではなかった。
興津丸は1番から6番までハッチがある。
3番ハッチは船の燃料である石炭を入れており、他のハッチは3、4階に区切って設営隊2500人の客室に代用されていた。
私が4番ハッチまであえぎあえぎ出て見るとうめき声と共に「助けてくれ!」との声がハッチの中から聞こえてきた。
私は救命具に付いていた懐中電灯を中に向けて点灯した。
灯火管制中であるため絶対灯りが外部に漏れてはいけないため、ほんのわずかであるがその灯りで内部を見た。
仮設してあった木製のタラップは魚雷命中のショックではずれ設営隊員の上へ、また設営隊である故、先のソロモン戦優勢の時占領したブルドーザーやトラックが甲板から隊員の寝ていた所に落下。下には真っ赤な血が一面に流れていた。
生き地獄とはこのことであろう。
私は懐中電灯をすぐ消し「ちょっと待ってろよ。今すぐ助けてやるぞ!」と言った・・ような気もするが私もびっくり仰天していたので、はたして叫んだかどうか40数年も経った今では定かではない。しかし、その時とった行動は一部の狂いもなく覚えている。
魚雷攻撃のあった時は、普段の訓練で必ずボートデッキに集まるよう訓練されていたので、この時も4番ハッチを見てからポートデッキに行こうとタラップを上がろうとしていた。
その時、今はだれだか明確ではないが多分一等火夫の中井さんであったかと思われるが
「もう(この船は)駄目だ。大事なものを持ってくる。」と引き返して行った。私も
「そうですか」と言って手探りで自分の部屋に戻った。
すると先程まで立っていられないほど右舷に傾いていた興津丸はやや持ち直し、右に傾いてはいるものの立っていられる程になった。
その部屋の中でだれか懐中電灯を付けてウンウンと言いながら服を何枚も重ね着している人物を見た。
よく見ると函館出身の二等火夫の佐藤稔さんという人だ。(この人にも会いたい)佐藤さんは私に海に入ったら寒いからうんとたくさん着たほうがいいと言いながら部屋を出て行った。
私はけっこうたくさん衣類は持っていた。(先輩達はお金がなくなったら船員服などを買ってくれといわれていた)さあ、あれにしようか、これにしようか、お金も持って行かなくては・‥お金は500円ほどあった。一月の給料が50円の時代である。
あれこれと迷っているうちに船室内には誰もいなくなった。
船はだんだんと沈んでいく。
結局私は何も着ず、何も持たず半袖半ズボンのままで救命胴衣をを持ってボートデッキまで、はい上がって行った。
船の後部6番ハッチ付近に魚雷が命中したのだろう、船尾より浸水しておおかた沈みかけている。
さっきデッキに出ていたときは真っ暗であったが東の空であろう少し明るさが増してきた。海に飛び込んで泳いでいる者もいた。
ふと見ると他の人は皆救命胴衣を着けている。
あわてて救命胴衣を着けようと結んであるそれを解こうとするけれど気ばかり急いで手は震え、普通に結んであるひもが思うように解けない。
それでも解こうとしていると、年配の海軍将校が私の前をポンポンと叩き
「あわてないで落ち着きなさい」とやさしく声をかけてくれた。
そしてそのひもを解いて私の胸と背にがっしりと取り付け、縛ってくれた。
あの時代にしてあの将校さん、年配とはいえほんとうに親切な将校さんであった。
またこの将校さんにしっかりと救命胴衣を着用して頂いたおかげで今日まで生きてこられたのかと思うと、名も知らない将校さんに未だ感謝の念が耐えない。
救命胴衣を着用してボートデッキに集合していると少し気持ちも落ち着いてきた。
先程より闇夜の海も少し明るくなってきた、と同時に右に傾いていた船もまっすぐになった。
船尾の方から沈みかけていた興津丸も小休止といったところか。
一等航海士は
「明るくなったら近くの島までどうにかしてたどり着いて船を座礁させよう」と言った。
「でも駄目かもしれない・・・船が沈んで海上にいるといくら南方赤道直下といえども寒いから、毛布でも持ってきてもよろしい」とも言った。
我々下級船員の毛布はひどい物であるが、士官のそれはクリーム色に日本郵船の赤の2本の線が入った素晴しい毛布であった。
一等航海士が毛布を持ってきてもいいと許しがでてすぐにボートデッキで命令待ちをしていた2、3人が士官の部屋へ降りて行った。
私は行こうかどうか迷っていた。この迷いが幸いしてか、その瞬間興津丸は船尾からぐいぐいと急速に沈みかけてきた。
さざ波が立っている海面がボートデッキまで1メートルと迫ってきているのが目に入った。
菊地船長はブリッジより一歩も出ない。その船長がブリッジの窓を開け「全員退船、全員退船‥‥」と叫んでいる。
ボートデッキにいた人は乗組員ばかりではない。
設営隊の人達もいて一杯である。
海へ飛び込む人、ボートに乗り込む人やらで右往左往している。
風は軽く右舷方向から左舷に向かって吹いていた。
機関部員室が右舷にあるので私も右舷にいた。
退船命令が出たので一刻も早くここから脱出しようと思ったが、私は泳ぎがあまり得意ではない。
それでボートに乗ることに決め右舷のボートのある所に行って見ると、すでにボートは人の山を乗せて船から離れて行ったあとだった。
私はふと頭に自分のボート配置は左舷のボートであったと思い出し、そこへ急いだ。
海面はボートデッキの上を洗い始め、船尾はもはや完全に海中に没している。
左舷のボートにたどり着いたとき、命のボートは今まさに船から離れようとしている。
私は乗るべく飛び込もうとした。
しかし、ボートまでとどく距離ではなかった。
でも船は沈んでゆく・・・・・
私はもうどうなるのか分からない。ここで死ぬのだ・・・
始めて死を覚悟した。
いろいろな希望も夢もあったがこの太平洋の真ん中で俺は18才の命を絶つのだと思い、また誰彼へとなく心の中で『サヨナラ』を叫び、太平洋へ飛び込んだ。
飛び込んで身体が海中に没する迄のほんの数10分の1秒であったろうか、私の脳裏に浮かんだのは年老いた父、そして兄、姉、故郷砂川の山や川、小学校へ入る前に母の帰りを待って途中まで歩いた砂利道などが「サヨナラ」の4文字を言っている間に全部浮かんできた。
左足に一瞬ロープがからまってきた。私はこのまま海底に引きずり込まれるような気がした。
しかし、それもつかの間、ロープが短かったせいかすぐに私の足から離れていった。
海中の私は力の許す限りもがき続けた。
どれくらい時がたったであろうか、幸運にも右手が空気に触れる感じがした。
しめたっと思い、海水を一杯エイッとばかり飲み込んで最後の力を振り絞ってもがくとぽっかりと顔が海上に出た。
これも救命胴衣をしっかりと着けてもらっていたおかげだと思った。
顔が海上に出ると腹一杯空気を吸い込み、2、3回手を動かして泳ぎの真似をすると頭にごつんと何かが当たった。
これまた幸運にも1枚の大きな板であった。この幸運の板にしがみつきながら一刻も早く船から離れようともがき泳ぎ続けた。
東の空はだいぶん明るさを増し、白い雲が水平線遙かに浮かんで見える。
興津丸は沈む勢いが早くなってきたと同時に船尾を海中に、船首をやや垂直に持ち上げ始めた。
興津丸の最後の汽笛が「ボー」と力なくかすかに聞こえる。
私はそのままじっと興津丸最後の姿を見守っていた。
ブリッジより一歩も出なかった菊地船長は蒸気の圧力のない汽笛のひもを引いたまま海中に消えていった。
興津丸には船首と船尾に明治44年製の12寸砲の対潜用の大砲が設備されていた。
その大砲を、真っ赤に焼けているその大砲を乗組海軍兵が最後のあがきとでもいおうものかと何処となく撃ち続ける。
やがて興津丸は直立し、1、2番ハッチに積んであったトラックやブルドーザーは山から石ころが崩れ落ちるようにゴロゴロと転がり落ち、私の周囲にジャボンジャボンと落ちてくる。
よく私の頭の上に落ちてこなかったものだと、また随分運のいい自分だと今さら感じている。
興津丸は垂直に立ってから間もなく「ズボン」という音と共に海中に没し、ジャー、ジャーと渦が立ち込めた。
しばらく経つと何事もなかったかのようにごく普通の海にかえっていた。