次の日からラッパで起床、ラッパで就寝の軍隊生活が始まった。入団して三日目の朝、錬兵場で訓練があった。宮崎班長の軍事訓練の説明があり
「班長が説明しているときは班長の目を見ておれ!!」と言っていた。
私は班長の目を見ていたが、隣の日の丸の旗が朝日に輝き空は真っ青のよい天気、少し気がゆるんだのか、いつの間にかついその日の丸の旗に目が行ってしまった。
「そこの兵隊!どこをみている!」と私の方へ指を差す。
入団したばかりで班長は兵隊の名前を覚えていないのだろう。私は隣の兵隊の顔を見る。すると班長は
「お前だよ。お前だ。そんなに見たいのならそちらを見ておれ。三歩前へ!!」
言われるまま三歩前に進み、その日の丸の方向に向かって立たされた。
そのうち六供班の軍事訓練も終わり、夏の焼けつくような太陽の下、広い錬兵場に立っているのは私一人だけ。
錬兵場は静かになり昼食をしているのであろうか誰も呼びには来ない。
入団の時、分隊長よりの言葉に『上官の命令は、おそれおおくも陛下の命令と思って聞け!』と言われていたのを思い出し、一寸とも動くことは出来ない。やがて、午後の日課も始まっている頃、錬兵場はどこの兵隊も出ていない。
たぶん兵舎で学科が始まっているのであろう。
やがて熱かった太陽も西の空に傾き、涼しくなってきた午後5時頃、錬兵場を横切る分隊長が向きを変え、私の所に近づいた。
「どうした?」
「教班長の説明の時、よそ見をしていて立たされました。」
「教班長の所に行ってあやまれ。」
朝から初めて歩いた。
教班長室に行くと班長どうしが雑談をしていた。
「宮崎教班長、許してください!」と言うと他に何も言わず「よし」と言っただけだった。
結局許してもらえたが昼食は食べさせてはもらえなかった。夕食は食べさせてもらえたが食べた後もお腹はぺこぺこであった。
起床ラッパと就寝ラッパの軍隊生活が始まって一ヵ月位経った頃の事だったと思う、厳しい訓練の後、私は十数人の兵隊と食事当番であったので小上がりの兵舎にテーブルを置き、運んで来た食事の用意をしていた。
以前から食事をする兵舎では草履を履くようにと言われていたが、八月の暑さと班長の厳しい命令『早くしろ、軍人は一刻も無駄には出来ぬ。トロトロするな』と追い立てられ
ているため、私を含め兵隊は皆素足で食事をしていた。そこへ小野田一等兵曹が精神棒を持って大声をあげてやってきた。
「草履を履いていない兵隊はここへ整列!」と号令がかかる。
私は気がつくと草履をはいていない。二、三人の兵隊を除いてほとんど履いていないようだ。十人ほど兵曹の言うとおりに整列をする。汗が額より流れ落ちている。小野田兵曹は第一班の教班長である。整列が終わると訓示が始まった。
「お前達は帝国海軍。軍人である。おそれおおくも天皇陛下の軍隊である。上官の命令は陛下の命令だと思え!陛下の命に違反したお前らはこれから処罰される。」と言って精神棒が床に一回ドスンとたたかれた。
「全員後ろにあるその台に腕立て伏せして足をあげよ!」
兵舎の窓ぎわに物入れになっている棚板が長い兵舎に備えてある。
床より五、六十センチほど高い、そこに両足を上げ半分逆さまになって腕を立てて伏せた。
次の命令は「全員腕を半分曲げよ」との命令。
ただ腕を伏せただけでもつらいのに、足を上げ腕を半分曲げての罪。上官の命令は陛下の命と言われ、私達全員命に従った。
時刻は正午を少し廻った頃、快晴で真夏の太陽がさんさんと降り注いでいる静岡県新居町浜名海兵団。一分もすれば汗は流れ落ちる。やがて二、三分と経っていくと流れた汗は床にしたたれ落ち、やがて水をまいたように光り始める。私を始め全員つらくてウンウンとうなりはじめた。すると小野田上等兵曹が精神棒で「しっかりしろ、何だ帝国海軍軍人が。」と言って尻を順に二つ三つ叩いてまわる。叩かれて腕がヘナヘナになって床に胸がつく。するとまた一つ精神棒が尻に飛ぶ。もういたい感じすらなくなる。汗は滝のように流れ落ちる。隣の兵隊も満天の力をこめて腕を上げるがウンウンと半分涙が汗と一緒にしたたり落ちていた。もう私はボーとなって意識ももうろうとなってきたころ、小野田上等兵曹は言った。
「オウオウ死ぬか。死ね、死ね。お前達みたいなものは死んでも困らない。兵隊は一銭五厘の葉書でなんぼでも来る。馬は五円、十円払わないと来ないけどナ。」この言葉だけは口惜しくて口惜しくて今でも耳に残っている。
海兵団の思い出はと言えば、今思うに楽しいことなど一つも思い出されない。ただ殴られたこと、罰を受けた事くらいしか記憶にない。海軍の学科の講習もあったように思えるが何一つ覚えていない。
退団も近い頃、浜名海岸で夜間、陸戦隊の訓練があった。
銃も貸与され、海岸の草むらをはって進むという訓練。
私は叩かれていたせいか軍人には興味がなくなり、この演習の時はいつも皆の後方について行った。
いよいよ最後の突撃の進軍ラッパが鳴り、前に進んだ兵はオーオーと叫んで前進していく。私はといえばお腹ペコペコ。ふと見ると民家のさつまいも畑。
盛土がしてあり、手を土に入れてみると芋がなっているではないか。いきなり手前に引くとポロリと取れてくる。真っ暗な闇夜、土のついたままのさつまいもを生で食べる。ヒョッと隣を見ると同じようにイモを食べている兵隊がいる。先に突撃していった兵はすでに整列して班長の訓示を聞いている。私とその兵は忍び足で列の後方に並んで知らん顔をしていたという思い出がある。
やがて三か月半の軍隊予備役の訓練の終わり、明日は錬兵場で海兵団長より進級の辞令をもらい、退団して郵船会社へ戻れるという前夜。一番嬉しい一日であった。
班長より階級章と黒い布(階級章の大きさ)が全員に配給された。
その階級章は上等機関兵だった。これをセーラー服の左腕に縫付け、その上に黒い布を一か所だけ止めることを命ぜられ、全員が取り付け始める。
私も今まで海兵団でつらかった事も忘れ、針を運ばせていった。
隣の兵達もなにやらしゃべりながら同じように針を運ばせていった。
やがてこの作業も終わり、明日の退団式を待つばかり。夜の点呼の就寝ラッパがこんなに嬉しく聞いて寝るのは軍隊生活最後で初めてだった。
明けて昭和19年11月25日午後六時の起床ラッパで飛び起きた。いつもの朝の点呼、朝食が終わって班長の訓示も今までとは違って言葉使いもやさしく、親切な様に聞こえた。午後九時錬兵場において兵団長より訓示があるとの事。それまで自由時間。この海兵団の門をくぐって初めてのくつろいだ時間であった。快晴の空、いったい何処で戦争をしているのか疑いたくなる様な穏やかな日であった。太平洋に目を向ければ太陽の光りでキラキラとさざ波が漂っている。陸上はといえば色づき始めた樹々の枝がかすかに揺れている。
九時きっかりに退団式は始まった。私はその訓示は覚えていない。
とにかく早く故郷へ帰りたい、そして郵船会社へ行ったら何を話そうかと、そればかりが頭より離れない。訓示が終わったであろう、分隊長の声が聞こえる。
「これより進級の辞令を恐れ多くも陛下より下賜され兵団長より伝達する。」
我々直立不動である。兵団長は壇上に上がり、水兵科に続いて我等機関科の順になった。
「だれそれ以下百八十名海軍上等機関兵を命ず。」広い練兵場に兵団長の声が響く。その兵団長の「命ず」の言葉が終わると同時に、昨夜階級章の上に仮に縫い付けた黒い布を、前方を見つめたまま静かにとり除いたものだ。この時はつらい海軍生活のなかで一番嬉しかった。この嬉しさはつらかった日々と共に忘れない一日であった。
式が終わって兵舎に戻る。今、着用していた軍服も下着も軍隊から貸与されていたもの。全部返納し、全員私服に着替えて浜名海兵団を振り返りもせず門を出た。後は苦楽を共にした鈴木鈴雄君(横浜在住)と東海道本線新井町駅へ向かった。そして列車の客になって桜木町の日本郵船横浜支店に出頭し、少しの休暇をもらった。再び鈴木君と故郷へ向かった。鈴木君の故郷は釧路である。途中砂川駅で下車し、私の実家に立ち寄り、父とも話しをして一泊してもらった。次の日横浜の郵船会社で再会することを約束して釧路に発って行った。
十二月の始め、会社より言い渡された休暇も期限が来た。釧路の鈴木君と打ち合わせてあった列車で車中の人となり、横浜の郵船会社へ行き、出社の挨拶をした。山下町にある会社の寄宿舎に行き部屋を指定され乗船命令が出るまで会社へ歩いて出勤した。